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3分間の読み物

万博の展示場で明るい未来と発展を描いた、H.F.ジョンソン・ジュニアの大胆なアイデア

3代目として会社を率いていたH.F.ジョンソン・ジュニアは、そのキャリアのどの段階でも、常にクリエイティブな手法で消費者にアプローチし、会社の評判を築いてきました。ここで重要なのは、その手法が極めて大胆なものだった、という点です。
 
その大胆さを考えれば、1930年代〜40年代に初期のラジオ広告を早々と取り入れ、当社の名前を一躍有名にしたのがH.F.であったことも頷けます。また、グローバル本社の美しい社屋を設計したフランク・ロイド・ライトとの長きにわたる関係を築いたのもH.F.でしたし、 
 
米国現代絵画を集めたジョンソン・コレクション「ART:USA」やアカデミー賞に輝いた映画『To Be Alive!』など、当社の芸術振興活動を推進したのもH.F.でした。 
父は独創的な人でした。アイデアマンでもありました。そして何より重要なのは、良いアイデアを見極める目を持っていた、ということでしょう。
サム・ジョンソンが語る父、3代目経営者のH.F.ジョンソン・ジュニア

1964年の万博:慣習からの脱却

1964年の万博への出展を計画し始めた当初は、誰もが一般的な産業ホールで行うような従来通りの展示会を思い描いていました。当時はそれが普通で、どの企業も、自社商品を紹介する場として博覧会を活用していました。
 
ところがH.F.には別のアイデアがありました。斬新なパビリオンを建設し、世界に新しい価値観を提案するようなユニークな映画を上映したいと考えていたのです。 
 
息子であるサム・ジョンソンは次のように語っています。「父は独創的な人でした。化学者としての教育を受けてきましたが、実に多才で、文化的、芸術的センスの持ち主でした。アイデアマンでもありました。そして何より重要なのは、良いアイデアを見極める目を持っていた、ということでしょう。他の人の創造性を引き出す才能もありました。」
 
万博も例外ではありませんでした。

1964年万博のジョンソン・ワックス・パビリオンのモデル
H.F.は「2つのダイヤモンド」を配した当社ロゴを考案した制作会社リピンコット&マーギュリーズに、1964年の万博のために建設するジョンソン・ワックス・パビリオンのデザインを依頼しました。
万博会場に設営されたSCジョンソン社のパビリオンでは、当然ながら、会社や製品の紹介も行われました。世界各国の床材やジョンソン社の製品を紹介する「美しい床の国際展覧会」をはじめ、新しい分野やイノベーションを手がける会社の多様性をアピールするプレゼンテーションなどが展示されました。 

客寄せのため、無料の靴磨きサービスを提供する自動靴磨きマシンを並べたセクションや、家のお手入れに関する難しい問題にも答え、解決策や製品を提案する、コンピュータ操作のテレタイプマシンも設置されました。

それだけでも十分異彩を放っていたとはいえ、SCジョンソン社の展示をひときわユニークなものにしていたのはそれらの展示物ではなく、「Golden Rondelle」パビリオン自体と、そこで上映された素晴らしい映画でした。これによりSCジョンソン社は、博覧会の話題の中心となったのです。
現在はThe Golden Rondelleとして知られる、1964年設立のSCジョンソン・パビリオン
SCジョンソン・パビリオンのユニークなフォルムは、同社の革新性を表す、もう1つの建築的シンボルでした。 

H.F.ジョンソン・ジュニアが見せたかった「希望」

1960年代初頭の世の中を思い浮かべてみてください。政治や社会が不安定な激動の時代。人々は核戦争を恐れ、米国では大統領が暗殺され、ドイツではベルリンの壁が建設されました。ベトナム問題は深刻化し、全米では公民権運動が高まりを見せていました。  

人々が悲観主義と恐怖に翻弄される時代だからこそ、H.Fは、平和や理解、生きることの喜びといった価値観を示す、明るい映画を上映したいと考えたのです。 

非常に型破りなアイデアであったため、完全に理解できる経営陣は一人もいませんでした。サムは次のようなエピソードを語っています。「父は、最高の建築家を求めてフランク・ロイド・ライトに依頼したように、最高の映画監督を起用したいと考えていました。そして、最高の映画監督として父が選んだのは、フランシス・トンプソン氏でした。」

世界各地のジョンソン・ワックス製品を紹介する1964年万博でのSCジョンソン社の展示
SCジョンソン・パビリオンでは、世界各地から採用された案内係が、海外からのお客様にさまざまな言語で対応しました。 
「父とトンプソン氏が何をやろうとしているのか、私たちにはほとんど理解できませんでした。万博に500万ドルもの費用を投入するというだけで、周りの人間はすでに困惑していました。映画について分かっていたのは、米国内や海外の人々の暮らしをテーマにした明るい内容である、ということだけでした。」

会社に伝わる逸話によれば、経営陣がその決断に疑念を呈した時、H.F.は彼らを見つめ、「諸君、勇気ある者にしかできない決断があるんだ」とだけ言って、立ち去ったといいます。

To Be Alive! Energized World's Fair Audiences

それから約2年が経過し、経営陣に映画のパイロット版が披露されました。ナレーションと音楽はまだ製作中の段階でした。その映画では、世界中の人々の暮らしぶりを、3つのスクリーンに同時に映し出すという、珍しい形式が採用されていました。しかし、サムからは「映画はなんともつかみどころがない」とのコメントでした。 

経営陣は意気消沈し、グランドオープニングイベントの準備すら躊躇するほどでした。それでもH.F.は、映画の成功を確信していました。 

そして実際、その通りになったのです。サムは続けます。「『To Be Alive!』の試写会のため、メディア各社がRondelleに集められたのですが、私たち全員、完成版を見たのはその時が初めてでした。その映画に私たちは皆、心を掴まれ、圧倒されました。それまでに製作された同カテゴリーの映画の中で、最も優れた作品だったと思います。」

素晴らしい世界を映し出すこの映画をきっかけに、米国中西部の「小さな」会社は、さらに注目を集めることとなりました。

…最も想像力に富み、非常に美しい仕上がりの映画だ。子供たちの目線で世界を切りとってみせ、そこには偏見や傲慢さがない
『To Be Alive!』に対する元米国大統領のドワイト・D・アイゼンハワーのコメント

企業映画からアカデミー賞受賞ドキュメンタリーへ

万博会場で18分間の短編映画『To Be Alive!』が公開されると、評論家や観客から称賛の声が相次ぎました。元米国大統領のドワイト・D・アイゼンハワーはこの作品について「…最も想像力に富み、非常に美しい仕上がりの映画だ。子供たちの目線で世界を切り取ってみせ、そこには偏見や傲慢さがない」と語っています。
 
真実と社会の進歩と楽観主義を、ユニークな形で融合させたこの映画は、万博の展示の中でも特に高い人気を博しました。その後、この映画は1966年アカデミー賞短編ドキュメンタリー映画賞を受賞しています。この映画は現在も、本社キャンパスツアーの中で上映されています。
 
フランク・ロイド・ライトとのパートナーシップ、Carnaúba飛行機でのブラジル探検、会社の成長に貢献した数々のヒット商品と同じく、『To Be Alive!』はH.F.ジョンソンの英断を伝える一例です。 
 
この作品は、発案者本人と同様、クリエイティブかつユニークで、冒険心と感動に満ちています。勇気ある者にしかできない決断。SCジョンソン社の成功は、H.Fジョンソンの英断があったからこそ実現したのです。