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3分間の読み物

H.F.ジョンソン・ジュニアが行なったCarnaúba飛行機での探検は、人生を変えるような冒険でした。

SCジョンソン社はその歴史において、好奇心と慎重なリスクテイキングを奨励してきました。当社は改善に向けた新たな方法を常に探し続けます。というのも、単に知性だけでは成功できないと信じているからです。そこには勇気も必要なのです。 
 
それこそが、3代目経営者、H.F.ジョンソン・ジュニアから学んだ1つの姿勢です。彼の大胆な決断の一例として、1935年、H.F.は往復2万4,000キロメートルの距離を飛行しブラジル北東部を訪れました。彼は、当時会社にとって最も貴重な原材料であったブラジルロウヤシを探し求めていました。
「彼は命の木を探し求めています。」

H.F.ジョンソン・ジュニアはブラジルロウヤシのワックスを探し求めた

ブラジルロウヤシの葉は世界一固いワックスの原材料で、当時ほぼすべてのSCジョンソン社製品の主要成分でした。SCジョンソン社製品の需要は急速に拡大しており、会社が生き残っていくためには、ヤシの安定的な供給が必要でした。
 
サム・ジョンソンはCarnaúbaba:息子が綴る回顧録』の中でこのように述べています。「それは特殊な環境の中で唯一繁茂しているように思われる植物です。ほかのすべての植物や樹木は、ブラジル北東部で交互に訪れる乾期のため死滅します。しかしヤシは葉のワックスで生命が守られるため大変良く茂っています。」 
 
ヤシの葉はワックスだけでなく藁ぶきにも使用されていました。繊維はロープ、敷物、ほうきに、葉柄は織ってかごや窓の日よけに、幹はのこぎりで切られ家の梁に、そして根は薬にと、まさにブラジル人が「命の木」と呼ぶにふさわしい植物でした。  

CarnaúbaシコルスキーS-38型水陸両用機に乗るH.F.ジョンソン・ジュニアと乗組員
1935年9月24日、H.F.と彼のチームはシコルスキーS-38型機でミルウォーキー空港を出発しました。

Carnaúba飛行機での探検:シコルスキーS-38型機での冒険

H.F.ジョンソンのチームには、副操縦士兼通信士のJ.A.ホイ、操縦士のE.H.シュランサー、購買代理業者のR.P.ガーディナー、研究部長のJ.V.ステインルの計4名が参加していました。 
 
彼らは小さな水陸両用飛行機でミルウォーキー空港から出発しました。双発飛行機であるシコルスキーS-38型機は、必要に迫られた際は1つのエンジンでも飛び続けられることから、当時最も安全な飛行機として知られていました。 
 
しかしながら、この旅路は安全とはかけ離れたものとなりました。人工衛星はまだ開発されておらず、今回のように冒険的な距離を飛行する人は稀でした。H.F.と乗組員は人影一つない状況下を長時間飛行しました。しかしH.F.は冒険を愛していました。

1935年、ブラジルロウヤシのワックス調達のためブラジルに向かった際のH.F.ジョンソン・ジュニアの飛行経路
1935年の探検は、ウィスコンシン州とブラジル間の往復2万4,000キロ超の旅となりました。

サムは幼少時代に聞いた父の冒険物語を回想します。カイエンヌに途中降り立ったとき、デビルズ島から来た殺人者と遭遇したこと。ピラニアの大群がいることを知らずに海の中を歩いて渡り、沿岸にいた群衆が自分たちに向かって叫び声をあげたこともありました。
 
旅は結局2万5,000キロメートル超にもなり、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国、ヴァージン諸島、アンティグア、セントルシア、トリニダード、イギリス領ギアナ、オランダ領ギアナ、フランス領ギアナをわたり、さらにブラジルのパラ州、マラニョン州、アマラカオ、カモシンへ進み、最終的にフォルタレザに到着し帰還する道程でした。合計飛行時間は168時間、飛行機は平均時速154キロメートルで飛行しました。

ファミリーカンパニーのR&Dは未来への投資を行う

H.F.は、より効率的なワックスの抽出方法を探しながら、SCジョンソン社の成長が見込めブラジルロウヤシの研究ができる場として、フォルタレザに研究センターを設立したいと考えました。 
 
当時ブラジルロウヤシのワックス(carnaúba wax:カルナウバロウ)を抽出する手作業には、刃が埋め込まれた台にヤシの葉を叩きつけて細かく刻み、剥がれたワックスを落とすよう葉を叩く工程が含まれていました。1日にわずか1,000枚の葉しか処理できず、抽出された粉の約半分は屑で汚れていました。H.F.は改善の余地があると感じていました。
 
研究センターは1937年に「ラポサ」の名で設立され、対象植物やその収穫方法、ワックスの精製について高度な研究開発を行う中心地となりました。当社は葉の新しい加工方法を開発するとともに、より早く成長しワックスを多く収穫できるヤシを作るためヤシ栽培の改良も行いました。またその知識を地元農家にも共有しました。 
 
1970年、ラポサはセアラー大学の農学部に寄贈されました。ここで栽培された何千ものブラジルロウヤシの標本が、長年にわたるこの偉大な木の研究や保護活動の基盤となっています。

父は、そのヤシに関して、自分の中に何かを見いだしていたのだと思います。というのも、ヤシは当社の強みとなり、サステナビリティの象徴でもあり、コミュニティへ利益をもたらすものでもあるからです。 
SCジョンソン社4代目経営者、サム・ジョンソン
H.F.は新たな目的を胸にウィスコンシン州ラシーンに戻りました。彼の目的はマーケティングで成功するよう会社を導くこと、フランク・ロイド・ライトを雇って本社を設計してもらうこと、革新的な社員の福利厚生を立ち上げることでした。  
 
しかし、彼は常に旅と共にありました。家族のために書いた本の中で、彼は息子のサムに宛ててこのように述べています。「お前にも、いつかこの旅を経験してほしい。この旅は、私の人生を変えるものだった。」 彼の言葉に導かれ、サムは60年後に自身もCarnaúba飛行機での探検に出かけました。この2人の探検の奇跡が今日のSCジョンソン社に刺激を与え続けているのです。 
 
1978年にH.F.が逝去する前、最後に1つリクエストしました。自分の墓石にブラジルロウヤシの葉を彫ってほしいというものです。その葉は単なる植物という以上に、H.F.が非常に重んじた価値の象徴となっており、感謝を込めて彼を思い出させるものなのです。
ブラジルロウヤシの葉を収穫
ブラジルロウヤシの葉を収穫。
ブラジル、フォルタレザのラポサ研究センター
1937年、ブラジルのフォルタレザにH.F.ジョンソン・ジュニアが設立したラポサ研究センター